P--1209 P--1210 P--1211 #1夏御文章    夏御文章 #21 (1)  そもそも今日の聖教を聴聞のためにとて、みなみなこれへ御より候ふこと は、信心のいはれをよくよくこころえられ候ひて、今日よりは御こころをうか うかと御もち候はでききわけられ候はでは、なにの所用もなきことにてあるべ く候ふ。そのいはれをただいま申すべく候ふ。御耳をすましてよくよくきこし めし候ふべし。  それ安心と申すは、もろもろの雑行をすてて一心に弥陀如来をたのみ、今度 のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、安心を決定したる行者とは申し候 ふなれ。このいはれをしりてのうへの仏恩報謝の念仏とは申すことにて候ふな り。されば聖人(親鸞)の『和讃』(正像末)にも、「智慧の念仏うることは 法 蔵願力のなせるなり」(三五)「信心の智慧にいりてこそ 仏恩報ずる身とはな れ」(三四)と仰せられたり。このこころをもつてこころえられ候はんこと肝 P--1212 要にて候ふ。それについては、まづ「念仏の行者、南無阿弥陀仏の名号をきか ば、あは、はやわが往生は成就しにけり、十方衆生、往生成就せずは正覚取 らじと誓ひたまひし法蔵菩薩の正覚の果名なるがゆゑにとおもふべし」(安心 決定鈔・本)といへり。また「極楽といふ名をきかば、あは、わが往生すべき ところを成就したまひにけり、衆生往生せずは正覚取らじと誓ひたまひし法 蔵比丘の成就したまへる極楽よとおもふべし」(同・本)。また「本願を信じ名 号をとなふとも、よそなる仏の功徳とおもひて名号に功をいれなば、などか往 生をとげざらんなんどおもはんは、かなしかるべきことなり。ひしとわれらが 往生成就せしすがたを南無阿弥陀仏とはいひけるといふ信心おこりぬれば、 仏体すなはちわれらが往生の行なるがゆゑに、一声のところに往生を決定する なり」(同・本)。このこころは、安心をとりてのうへのことどもにてはんべる なりとこころえらるべきことなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなか しこ。 #22 (2)  そもそも今日、御影前へ御まゐり候ふ面々は、聖教をよみ候ふを御聴聞の P--1213 ためにてぞ御入り候ふらん。さればいづれの所にても聖教を聴聞せられ候ふ ときも、その義理をききわけらるる分もさらに候はで、ただ人目ばかりのやう にみなみなあつまられ候ふことは、なにの篇目もなきやうにおぼえ候ふ。それ 聖教をよみ候ふことも、他力の信心をとらしめんがためにこそよみ候ふこと にて候ふに、さらにそのいはれをききわけ候ひて、わが信のあさきをも直され 候はんことこそ仏法の本意にてはあるべきに、毎日に聖教があるとては、しる もしらぬもよられ候ふことは、所詮もなきことにて候ふ。今日よりしては、あ ひかまへてそのいはれをききわけられ候ひて、もとの信心のわろきことをも人 にたづねられ候ひて直され候はでは、かなふべからず候ふ。その分をよくよく こころえられ候ひて聴聞候はば、自行化他のため、しかるべきことにて候ふ。 そのとほりをあらましただいま申しはんべるべく候ふ。御耳をすまして御きき 候へ。それ安心と申すは、いかなる罪のふかき人も、もろもろの雑行をすてて 一心に弥陀如来をたのみ、今度のわれらが後生たすけたまへと申すをこそ、安 心を決定したる念仏の行者とは申すなり。このいはれをよく決定してのうへの 仏恩報謝のためといへることにては候ふなれ。されば聖人(親鸞)の『和讃』 P--1214 (正像末・三五)にもこのこころを、「智慧の念仏うることは 法蔵願力のなせる なり 信心の智慧なかりせば いかでか涅槃をさとらまし」と仰せられたり。 この信心をよくよく決定候はでは、仏恩報尽と申すことはあるまじきことに て候ふ。なにと御こころえ候ふやらん。この分をよくよく御こころえ候ひて、 みなみな御かへり候はば、やがて宿々にても信心のとほりをあひたがひに沙汰 せられ候ひて、信心決定候はば、今度の往生極楽は一定にてあるべきことに て候ふ。あなかしこ、あなかしこ。 #23 (3)  そもそも今月はすでに前住上人(存如)の御正忌にてわたらせおはしますあ ひだ、未安心の人々は信心をよくよくとらせたまひ候はば、すなはち今月前住 の報謝ともなるべく候ふ。さればこの去ぬる夏ころよりこのあひだにいたるま で、毎日にかたのごとく耳ぢかなる聖教のぬきがきなんどをえらび出して、 あらあらよみまうすやうに候ふといへども、来臨の道俗男女をおほよそみおよ びまうし候ふに、いつも体にてさらにそのいろもみえましまさずとおぼえ候 ふ。所詮それをいかんと申し候ふに、毎日の聖教になにたることをたふとき P--1215 とも、また殊勝なるとも申され候ふ人々の一人も御入り候はぬときは、なにの 諸篇もなきことにて候ふ。信心のとほりをもまたひとすぢめを御ききわけ候ひ てこそ連々の聴聞の一かどにても候はんずるに、うかうかと御入り候ふ体たら く、言語道断しかるべからずおぼえ候ふ。たとへば聖教をよみ候ふと申すも、 他力信心をとらしめんがためばかりのことにて候ふあひだ、初心の方々はあひ かまへて今日のこの御影前を御たちいで候はば、やがて不審なることをも申さ れて、ひとびとにたづねまうされ候ひて、信心決定せられ候はんずることこそ 肝要たるべく候ふ。その分よくよく御こころえあるべく候ふ。それにつき候ひ ては、なにまでもいり候ふまじく候ふ。弥陀をたのみ信心を御とりあるべく候 ふ。その安心のすがたを、ただいまめづらしからず候へども申すべく候ふ。御 こころをしづめ、ねぶりをさましてねんごろに聴聞候へ。  それ親鸞聖人のすすめましまし候ふ他力の安心と申すは、なにのやうもなく 一心に弥陀如来をひしとたのみ、後生たすけたまへと申さん人々は、十人も百 人ものこらず極楽に往生すべきこと、さらにその疑あるべからず候ふ。この 分を面々各々に御こころえ候ひて、みなみな本々へ御かへりあるべく候ふ。あ P--1216 なかしこ、あなかしこ。 #24 (4)  そもそも今月十八日のまへに、安心の次第あらあら御ものがたり申し候ふと ころに、面々聴聞の御人数の方々いかが御こころえ候ふや、御こころもとなく おぼえ候ふ。いくたび申してもただおなじ体に御ききなし候ひては、毎日にお いて随分勘文をよみまうし候ふその甲斐もあるべからず、ただ一すぢめの信心 のとほり御こころえの分も候はでは、さらさら所詮なきことにて候ふ。されば 未安心の御すがた、ただ人目ばかりの御心中を御もち候ふ方々は、毎日の聖教 にはなかなか聴聞のこと無益かとおぼえ候ふ。そのいはれはいかんと申し候ふ に、はやこの夏中もなかばはすぎて二十四五日のあひだのことにて候ふ。また 上来も毎日聖教の勘文をえらびよみまうし候へども、たれにても一人として、 今日の聖教になにと申したることのたふときとも、また不審なるとも仰せら れ候ふ人数、一人も御入り候はず候ふ。この夏中と申さんもいまのことにて候 ふあひだ、みなみな人目ばかり名聞の体たらく、言語道断あさましくおぼえ候 ふ。これほどに毎日耳ぢかに聖教のなかをえらびいだしまうし候へども、つ P--1217 れなく御わたり候ふこと、まことに事のたとへに鹿の角を蜂のさしたるやうに みなみなおぼしめし候ふあひだ、千万千万勿体なく候ふ。一つは無道心、一つ は無興隆ともおぼえ候ふ。この聖教をよみまうし候はんも、いま三十日のう ちのことにて候ふ。いつまでのやうにつれなく御心中も御直り候はでは、真実 真実無道心に候ふ。まことに宝の山に入りて手をむなしくしてかへりたらんに ひとしかるべく候ふ。さればとて当流の安心をとられ候はんにつけても、なに のわづらひか御わたり候はんや。今日よりしてひしとみなみなおぼしめしたち 候ひて、信心を決定候ひて、このたびの往生極楽をおぼしめしさだめられ候 はば、まことに聖人(親鸞)の御素意にも本意とおぼしめし候ふべきものなり。 #25 (5)  この夏のはじめよりすでに百日のあひだ、かたのごとく安心のおもむき申し 候ふといへども、まことに御こころにおもひいれられ候ふすがたもさのみみえ たまひ候はずおぼえ候ふ。すでに夏中と申すも今日・明日ばかりのことにて候 ふ。こののちもこのあひだの体たらくにて御入りあるべく候ふや、あさましく おぼえ候ふ。よくよく安心の次第、人にあひたづねられ候ひて決定せらるべ P--1218 く候ふ。はや明日までのことにて候ふあひだ、かくのごとくかたく申し候ふな り。よくよく御こころえあるべく候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。 [この第四章の末語、文勢・義旨おだやかならざるに似たり。先哲の述意はかりがたし といへども、ひそかにかんがふるに、これ後人第五章をもつて、あやまりて第四章に混 ぜるものか。かるがゆゑに改めて両軸となす。いまより聞くものをして惑ひなからし む。予、臨池の技にふけるにあらず、実に門下の道俗をして金剛心に住し、生を安養に 期せしめんと欲するがため、ことさらに觚をあやとりてこころをここに尽すのみ。]   [安永七戊戌の春これを書く。]                            [法如七十二歳]